集団的自衛権の思想史──憲法九条と日米安保

東大法学部をやたら嫌う人、といういい加減な先入観はなくなった。

なすべき議論がなされていないことと、それをやってきた集団が嫌いだということだった。

憲法本だと、どうしても自説に沿ったつまみぐいの書き方になるところを、国際政治のこの人は、事実と経緯を平易に淡々と検証している。

結論が何であれ、憲法論議をする人には、このような淡々とした議論をしてもらえると嬉しい、と思う本。

集団的自衛権の思想史──憲法九条と日米安保

他人をバカにしたがる男たち

最近はやり?のSOC sence of coherenceの話。

理論化したアントノフスキー氏は、日本人はSOCが高いだろうと予測したらしい。筆者は、昔の日本人は高かったのだとしているが、疑問あり。

言わなくてもわかるでしょ、空気読め、そんな中で育まれるのは、自己充足感よりも、コミュニティを充足させる切迫感。それが組織構築の下手さに繋がっていると思う。

他人をバカにしたがる男たち 日経プレミアシリーズ

変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯

牛場信彦を追った本。伝記的な流れに本人を知る人からのエピソード、歴史的背景がはさまり、とてもおもしろい。

日米交渉の人だと思っていて、戦前は枢軸派だったことなど知らなかったが、国を思って選択していった道であることは想像に難くない。

 

変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)

刀狩り―武器を封印した民衆

秀吉の刀狩りは、信じられて来たように民衆を丸腰にしたのではない、という出だしはとても刺激的。ただ、進むに連れてメッセージがぼける。

日本には、身分を問わず、刀への信仰にも似た気持ちが長くあった。使う権利より帯刀という名誉権が主眼。さればこそ、大仏建立の鎹にする(仏様に差し上げる)と言わなければ刀狩りできなかった。戦後の占領軍が武器供出を命じた時に、日本刀を除外してくれと日本政府が頼み込んだのを見ると、この信仰がなくなったのはマッカーサー以降かと思われる。

アメリカは(カタナを獲物として持って帰りたい気持ちはともかく)日本の治安維持のために武器供出をさせることができ、自国ではできずじまい、なのか。それとも、日本では、今も相当数の武器が国民の手にあるがコンセンサスとして使われておらず、アメリカではそのコンセンサスが形成されなかった、なのか。筆者はアメリカには触れず、日本については後者を示唆する書き方をしている。

秀吉の刀狩りは、身分制度確立の手段。これを、大名間の戦争を仲裁するのと並行して進めた。秀吉のマネージメント能力の高さはどこから来たのかと思う。

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

The Impossible State: North Korea, Past and Future

朝鮮半島はいずれ統一できるという期待を持って書かれた本。

交渉、挑発、交渉のサイクルを経験し、北レジームは核開発を交渉ツールとして行っているのではないと明確に認識しつつも、やるべきことは交渉と述べている。少し前の本だが、(その時点で)アメリカ政府にも国民にも、中東に対するような関心の度合いは期待できないからこそ交渉と書いている。まさにそのとおりで、そして今に至った。

ラスクが基礎知識ないまま南北分断を行ったところが印象に残る。

The Impossible State: North Korea, Past and Future

世界の辺境とハードボイルド室町時代

世界の辺境と日本の前近代を比べて語る対談。おもしろそうな本が次々出てくる。

日本の文書主義。律令の国と神判の国。文明からの距離感。ムラ社会は応仁の乱頃から。米作はモノカルチャー。

公家は日記をつけ、転変する現実と向き合う武士はつけなかった。すべてに記録を求めることは転変する現実と向き合う間を奪うことなのか?

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)